葦塚・下田行政区の由来
芦塚:地名の由来は、湾曲して流れる筑後川の沿岸の葦の繁った寄州が陸地化し、国境の戦乱の激しさを偲ばせる遺跡(墓碑・板碑・六地蔵・石仏寺)の多さからから名付けたものであろう。村の名は鎌倉〜戦国時代に見える。葦墓村・葦塚村とある。永仁4年(1296)玉垂宮・大善寺に奉仕する村としてその名が出ている。
下田:筑後川下流の要衝で、東肥前の強豪少貳一族の横岳氏西島城に備えて、豊後の大伴氏は豊後日田堤城の代官堤貞正を寛正三年(1462)この地に派遣した。下田というのは筑後川の下手にある良田をもつ集落のことで、肥前領内に大きく蛇行した、三方を筑後川に抱かれた肥沃な田畑は永禄7年(1564)新川が下田領内を分断すると、旧川は潟や芦野陸地を広げ、飛び地化した城島分の農地も耕作できるようになった。5代120年の堤氏治世は折からの戦国時代の常で、攻略・攻守・戦乱の連続で最後は龍造寺氏に殉じて滅亡した。
幕藩時代は一族の大石、堤氏が大庄屋や庄屋として活躍した。領内を分断した筑後川は本流となり領民は渡し船で往来し「下田の渡し」は平成6年(1994)まで続いた。宝永年間には下田新町の家数は48軒とある。この下田新町とは河岸(船着場)としての在郷町のことである。安永3年、年貢米の地域集荷場である郷場が設けられている。文化元年創立の寺子屋があり現在でも地元の人達は「町」と呼んでいる。
以上「城島町誌」より引用 |